ことばの森

日々の生活の中で心に残ったことばを紹介していきたいと思います。

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なかなか

若い頃、
年を取るとは、平凡な日常に慣れることだと思っていました。
しかし、年を取った今、
年を取るとは、身軽になることなのかな、と思ったりしています。

なかなか、身軽になれない毎日ではありますが。

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先日20歳になったユウちゃん。
やせたとはいえ、まだまだ。




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夢と現実―その後―

前々回のブログで、「亮くん」という名前が出てきました。
私は、夢でその名を聞いたとき、
「良」でも「涼」でも「遼」でもなく、「亮」だと思いました。
そして「少年」だろうと思いました。
どうしてだかわかりません。
とにかく「亮くん」だと思いました。

その後、そのことはすっかり忘れていました。

一昨日のことです。
小僧さんが通う高校の終業式でした。
朝から冷たい雨が降る寒い日でした。
私は、久しぶりのオフだったのですが、何だか調子が悪くて
一日中グダグダしていました。
「待ち合わせる?」という小僧さんからのラインにも「いいや」と
返事するのがやっと。
そうこうするうちに小僧さんが帰宅。
 「ひゃー、寒いねぇ。
 おかあ、ホットケーキ焼いて」
 「学校、どーだった?」
 「よかった」
 「荷物は?」
 「体育館履きやサンダル持ってきたから重いよ」
そう言って、小僧さんは、リュックサックから次から次へと荷物を出します。
 「あ、これ。今度の文集だって」
 「へー、どれどれ」

小僧さんの高校では、毎年、生徒会が中心になって250頁ほどの小冊子を作るのですが、
今年のその雑誌の最後のほうに、昭和29年に亡くなった「亮くん」の話がありました。
 ――、小僧さんの先輩にいた。
 ――、「亮くん」がいた。
 ――、若くして亡くなった「亮くん」がいた。

夢に出てきた「亮」くんは、あなただったのですか?
あなたが、主人の写真を撮ってくれていたのですか?



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コミュニケーション―2―

2017all.jpg

ああ、忙しかった。
一つ山越えした感じです。
「山越え」って「問題解決」だよなぁ。
無理、無理って思っていたことでも、何とかこなして前に進む。
そんなことの繰り返しで、一つ一つできることが増えていって、
また、自分にできないことがわかって、
で、自分というものがだんだんわかっていって、
うまくできているもんだなぁ、としみじみ思うのです。
「自己効力感」なんて、言葉で言えばそーゆーことなのかもしれないけども。
 ♪一つ山越しゃホンダラホイのホイホイ
ときたもんだ。(「国境の町」でなくてすみません。)

それでね。
朝も早い東京駅の雑踏でふと思ったことなんですけど。
 「人間って容れものに包まれているみたい」

新幹線のホームで、山手線のホームで、改札で駅員さんに何やら聞いている人を見て、
そんなことを思ったのでした。

容れものと容れものがぶつかりあったりするのがコミュニケーションなのかな、と。

(私には、透明のアクリル板でできてる筒のようなものイメージなんですが、)
柔らかくて衝撃を吸収できるような容れものの人が、いわゆるコミュニケ―ションが
上手な人で、容れものが固かったり、他の容れものとぶつかって傷ができたりするのが
嫌だと思う人がコミュニケーションが上手くとれない人なのかなぁ、なんて思いました。

私が駅の雑踏で感じた「容れもの」、容器なんですが、もちろん中身も大事なわけで、
中にきれいなものがたくさん入っている人は、容器を通して、その美しさが伝わってくるようです。
汚いもの、醜いものをたくさん溜め込んでいる人は、容器がどんよりしていて、にごって見えます。
また、容器を大事にせず、磨いていない人もいたみたい。
外見を整えるというのは、容器をキレイにすることなのか、
人は見た目じゃない、というけれども、それは中身が美しい人に言える言葉だよな、
中身が普通かそれ以下程度であれば、やっばり容器を磨いたり、汚れがついたら拭いたり
しないとダメなんじゃないかな。
そんなふうに思ったんです。

そして、透明な容器が入った中身
 ―私には「液体」みたいな流動性があるものに思えたんですが―
が、お互いの容器の中身と混ざることがある。これが「結婚」なのか。
そんなことも思いました。

絵具の筆洗の水のように、
他の容器に入っているモノを自分の容器に少しいただいて、自分の中身とミックスすることで、
キレイな色になったり、濁ったり。
あるいは、カクテルのように、
他の容器に入っているモノを少し混ぜることで、思いがけない味になったり。

人と人とのふれあいって、けっきょく容器と容器のふれあいなのか、
この世からいなくなるって、容器がなくなるってことなのか、
そうだったのか、
「思いは残る」って、容器の中身が残るってことだったのか。

何だかよくわからないことが腑に落ちた思いで、
急ぎ足で新幹線の改札に向かう私がいました。




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夢と現実

例年のことですが、2月は忙しい。
くったくたです。
で、3月早々に風邪をひきました。
小僧さんは、昨日から修学旅行で北海道に。
仕事も早く終わったから、軽く飲んで(←これがいけない)、
さっさと帰って、ひたすら寝ました。

主人が亡くなってから、続き物の夢をよく見るようになりました。
昨夜、今朝の夢もそうでした。
何だこりゃ?と思って目が覚めて、で、コーヒーでも飲んで、また寝るのですが、
何だこりゃ?の続きを夢で見るわけです(汗)

小僧さんと、主人の生徒さん(お弟子さん?)と、私とで、
病室で主人の最期を看取ったはずなのに、
主人が脳梗塞で倒れてから、主人はずっと家にいたのはずなのに、
なぜだか主人が一時期失踪しているという設定の夢が多いのです。
失踪している時期は、1ヶ月だったり、1年だったり、ずっとだったりと
様々なのですが、とにかく主人が忽然といなくなる。
その理由が皆目わからない。
たまに主人と連絡がとれるときがあったり、人のウワサでどこそこで見かけた、
というような情報が入り、その度に私が右往左往するという内容の夢です。
これは、主人が私のそばからいなくなったことに、私自身が心から納得していないために
こんな夢になるんだろう、などと考えていたのですが、あまりに頻繁にこのタイプの夢を
見るために、ホントに主人が一時期いなくなったんじゃないだろうか、と思うこともしばしば。
でも、そんなことないしなー。
というような前フリがありまして。

昨夜、今朝の夢は違ったのです。
設定は主人が亡くなった後の話でした。
主人が失踪していたときのことが、少しずつわかるというミステリーのような夢でした。

私は、旅館にいます。
女将さんに部屋をお願いして、鍵を受け取ろうとすると、なぜかその鍵が
主人が使っていた家の鍵になっています。
この鍵、違うのでは?
と女将さんに言うと、
あら、ホントですね。申しわけない。前にいらしたお客さんのものだわ。
との返事。
これ、亡くなった主人の鍵なんですけど、主人がこの旅館に来ていたということなんでしょうか?
あら、そうでしたの。ちょっとお待ちくださいね、宿帳を見てみますから。
女将さんが見せてくれた宿帳には、私と私の母と知人の字で、この旅館で法事を営んだときの
記録がありました。
ああ、このときのお食事ならよく覚えています。美味しかったもの。
なんてことを言いながら、
この時以外にはご主人さまがいらしたことはないようですねぇ。
と、女将さんと不思議がっていると、荷物を持ってくれる若い衆
(ドアボーイとかそんなふうの若者ではありません。あくまでも「若い衆」。
眉毛が立派な若者でした)が、
ああ、そりゃ、〇〇が知ってますぜ
というようなことを言います。
あら、それじゃ、お部屋にご案内したあとにご一緒に探しておあげなさいな。
と女将さん。
部屋に案内してもらうと、何だか懐かしい感じが。
主人も、ここでこの風景を見たのかという気がすごくする。変だな。
部屋でお茶をいただき、若い衆と外へ出る私。
漁村とまではいかないけど、砂浜と海がきれいな場所です。
主人のことを話しながら歩いていると、ちょっとおしゃれな初老の紳士が寄ってきて、
主人のことをよく見かけたという。
ほら、写真もありますよ、という。
そこには、私の知らない服を着た主人が、私のよく知っている笑顔で写っている。
たしかに主人です。よくここに来ていたんですか?
ええ。いろいろと面白い話をお互いにしましたよ。
この写真は?
写真ですか? 亮くんがいつも撮っていましたね。

「亮くん」!
亮くんという知り合いは、私たち夫婦にはいません。
でも、私は、なぜだか「亮くん」を知っている。
あの亮くんが主人と一緒だった! 写真も撮っていた!

ここで、2回目だか3回目だかの夢が覚めました。
正確には、「亮くん」という言葉を聞いて、私が跳ね起きたのです
(布団の上の猫が転がり落ちました)。
そのあとの私の行動は意外なものでした。
主人の携帯電話に何かあるかもしれないと思ったのです。
急いで、主人のガラケーをあける。
当然、充電切れ。

主人は携帯が嫌いでしたが、私が仕事で家をあけることが多かったから、
携帯に何か残していたことは可能性としてはないことはない。
そんなことを一瞬で考えたのかもしれません。
でも、充電切れ。
アホなことに、私、スマホに変えてしまったんで、ガラケーの充電機器を捨ててしまったようなんです。
くぅーっ。
どうなる?
「亮くん」って誰?

とりあえずブログに書いたことでスッキリしたんで、この後も気になるようだったら充電してみよう。
でも、主人の性格からしても、死後にわかるメッセージを残すような人ではないし、
風邪のせいでそんな夢を見たんでしょう。
あいかわらずスピリチュアルなところから離れている私(苦笑)





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コミュニケーション―1―

2017you01.jpg

学生さんたちに、「今の子どもの実態は?」みたいなことを聞くと、
必ずといっていいほど「コミュニケーション能力の低下」って答えてきます。
じゃあ、どうしてコミュニケーション能力が低下したのかね、と聞くと、
携帯電話やゲームの普及によって人と直接話さなくなったから、なんて答えます。
はぁ~。
コミュニケーションって、言葉を直接交わすだけじゃないと思うんですけどね。

小僧さんが生まれたとき、
小僧さんと私は言葉を交わすことはなかったけれど、
小僧さんを見ていて、私、
 「コイツのこと好きかも」
 「コイツ、いい奴かも」
なんて、思ったものです。
言葉を交わさずとも、コミュニケートはできるでしょう。

猫さんたちとだって、言語を通して関わることはするけれど、
でも、それはお互いにとっての共通言語じゃないもんねぇ。
 「ユウちゃん、ただいま」
 「ファー、ファー(注 ユウちゃんはニャーと鳴けません)」
程度のコミュニケーションはするけれども、情報のやりとりとしては
かなり心もとないやりとりですもんねぇ。

ものの本によると、コミュニケーションの原義は「分け合い」なんだそうです。
なるほどね。
たとえば、「空間コミュニケーション」。
エレベーターで見知らぬ人と乗り合ったとき、お互いがお互いに対して
何となく気を遣いませんか?
相手が不快に思うようなこと、怪訝に感じるようなことはしないですよね。
これは、コミュニケーション能力が十分に発揮されているってことになりませんかね。

江戸しぐさだって腹芸だって、日本人のコミュニケーション能力の一つの表れですわね。

人とコミュニケートするということについて、いろいろと思うこの頃です。





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